バイオグラフィ
小川紳介(おがわ・しんすけ)
1936年(昭和11)
6月25日、東京市芝区横新町に生まれる。同住所は現在の東京都港区芝に相当。
1943年(昭和18)
青山国民学校に入学。9月、父母らと離れ、祖父が暮らす岐阜県土岐郡釜戸村に一人で転居。釜戸国民学校に転入。
1946年(昭和21)
父母らと共に山梨県塩山に転居。塩山小学校に転入。
1948年(昭和23)
父母らと共に東京都港区霞町に転居。港区立笄小学校に転入。
1949年(昭和24)
港区立純心中学校(現・区立高陵中学校)に入学。
1952年(昭和27)
私立海城高等学校に入学。
1955年(昭和30)
4月(18才)、国学院大学政経学部に入学。映画研究会を結成。
1957年(昭和32)
(20才、あるいは21才)、映研第一作『小さな幻影』の製作を担当。
1958年(昭和33)
8月(22才)、製作を担当した映研第二作『山に生きる子ら』完成。
1959年(昭和34)
3月(22才)、国学院大学卒業。6月頃、「新世紀映画」に入社。
1960年(昭和35)
初秋(24才)、「岩波映画製作所」と助監督契約。
1961年(昭和36)
秋(25才)、黒木和雄監督の『我が愛北海道』('62年)の撮影途中から東陽一と交替し助監督につく。秋浜悟史、岩佐寿弥、大津幸四郎、東陽一、久保田幸雄らと続けていた研究グループに、黒木和雄、土本典昭両監督が加わり、「青の会」が始動する。
1964年(昭和39)
(27才、あるいは28才)、「岩波映画製作所」との契約を打ち切る。
1966年(昭和41)
2月(29才)、第一回監督作品『青年の海――四人の通信教育生たち』クランクアップ。
1967年(昭和42)
10月(31才)、『圧殺の森――高崎経済大学闘争の記録』完成。
1968年(昭和43)
2月頃(32才)、千葉県成田市南三里塚・長原地区に宿舎を借りる。3月、東京都新宿区西大久保に「小川プロダクション」正式設立。夏(32才)、『日本解放戦線・三里塚の夏』完成。
1970年(昭和45)
5月(33才)、三里塚第二部『日本解放戦線・三里塚』完成。9月(34才)、『三里塚・第三次強制測量阻止闘争』完成。
1971年(昭和46)
1月(34才)、千葉県山武郡芝山町菱田・辺田に宿舎を借りる。5月(34才)、『三里塚・第二砦の人々』完成。同作品がマンハイム映画祭でジョセフ・フォン・スタンバーグ賞を受賞。
1972年(昭和47)
10月(36才)、『三里塚・岩山に鉄塔が出来た』完成。
1973年(昭和48)
4月(36才)、『三里塚・辺田部落』完成。
1974年(昭和49)
2月(37才)、山形県上山市・牧野移住を決定。7月頃より移住の準備が始まる。
1975年(昭和50)
4月(38才)、『どっこい!人間節』完成。6月、『クリーンセンター訪問記』撮影。
1977年(昭和52)
5月(40才)、『五月の空 里のかよい路』完成。7月(41才)、『牧野物語・養蚕編』撮影。10月、『牧野物語・峠』撮影。
1982年(昭和57)
8月(46才)、『ニッポン国古屋敷村』完成。
1984年(昭和59)
2月(47才)、ベルリン映画祭のフォーラム部門に『ニッポン国古屋敷村』が招待。国際映画批評家賞を受賞。
1986年(昭和61)
12月5日(50才)、『1000年刻みの日時計――牧野村物語』完成。
1987年(昭和62)
2月(50才)、ベルリン映画祭に再度招待。
1988年(昭和63)
4月(51才)、香港映画祭に招待。11月(52才)、ハワイ映画祭に参加。山形市が市制百周年記念行事として計画した「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の準備委員になる。
1989年(昭和64・平成元年)
6月(52才)、カナダのモントリオール映画祭に参加。10月10日~15日(53才)、「山形国際ドキュメンタリー映画祭'89」開催。同映画祭のアジア・シンポジウム「アジアの映画作家は発言する」で司会進行役を務める。
1992年(平成4)
2月7日夜、入院先の北里大学東病院で、直腸ガンの転移による肝不全により死去。享年55歳。
【本稿は筑摩書房刊「映画を穫る」を参考にしました】
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